「当たり前の日常」なんてあるのかな?。
こんばんは。別の記事を書きかけのお奉行です。
今日は一人で渋谷をお散歩。Noマスクの客引きから常に2m以上の距離を取って歩くのはなかなか難しいものです。
夕飯を食べたい思いと、さほど減っていないお腹との葛藤だ。50分ほど歩いてやって来たのは「中華料理 一番」。全く知らないお店だったが、なにか惹きつけるものがあった。先日の神社の近くだ。
こんな感じの中華料理屋さん、コンビニの数より多そう。入ってみる。ガラガラ〜(実際には自動ドアだったので、こんな音はしなかった)。
あ、入ったらほんとにガラガラですね。一人もいませんよ。
僕と店主のご婦人はいますが。
メニューもこれまた至って普通。特に驚くようなものはない。
「豚肉とキャベツの味噌炒め」と「ライス」を注文。また共食い。ブヒ。
70近くのご婦人が一人で厨房を切り盛りする。この細い腕で…と思うほどに豪快なフライパンフリフリだ(「包丁さばき」とかは言うけど、フライパンの場合なんて言えば良いの?)。
お、来た来た。想像通りの「豚肉とキャベツの味噌炒め」だ。
いただきます。
あ〜〜これこれ、期待を0%裏切る味。
豚さん、こんなに美味しく味付けしてもらえてよかったね。濃すぎない味噌に丁度良い脂身の豚。あったかい。
日本人が普遍的にプログラミングされている「家庭の味」そのものだ。
何よりスープが美味しい。醤油ベースで、他に何が入っているかは豚なので分かりっこないが、暖まる。
あ、おじさまが一人で来店した。餃子を頼んだ。そうか〜餃子もあるなあ。今自分、「中華」してないなぁ。とか思いつつ豚を食べ進める。
あ、おじさまが二人で来店した。席に着くなりメニューを見ないで「餃子・ビールセット」を頼んだ。
店主が「ビールは餃子の後?」と聞く。すかさず「前!前!」と威勢がいい。
おじさま二人が何やら話している。深刻な顔はしてないけど、特段楽しそうって訳でもない。うーん、聞き耳を立てるには遠すぎる距離だ。
大人の男って、何話すんだろう。
自分なんかは、夏の旅行はここに行こうとか、課題がまだ終わってないとか、あの授業の先生は厳しいとか、下ネタとか、クラスのあの子が可愛いとか、あいつとあの子が付き合ったらしいとか、桓武天皇はいかにして皇権の強化を図ったかとか、古代日本の律令制成立期において天平期はどのような意義を持つのかとか、そんなことしか話していない。
大人の男になったらどんな会話をしているんだろうか。あんまり変わらないのかもしれない。そんな難しいこと話してるとは思えないな。
ごちそうさまでした。
「豚肉とキャベツの味噌炒め定食」なるものがあったらしく、その値段にしてくれた。ありがとうございます。感謝の気持ちで食器を片付けていたら、「いいですよ笑、ありがとうございます😊」と。
女子の「いいよ」は「よくない」の意味だと聞いたことがある。今回もなのだろうか。
店を出た。もう自分のお腹の世話をする必要はなくなった。また歩く。考える。
今日は「普通のお店」だった。しかしこの一年半、こういう「普通のお店」からどんどん無くなっていったのではないか。真っ先に失われたのは、「日常」であり、 仲間とビールを飲みながら楽しくも悲しくも難しくもない話をする場だったのではないか、そんなことを思った。
「当たり前の日常」なんてものは、そうそうあるものじゃない。今日のお店は、自分の中での「特別」にするために、もう行かないかもしれない。
「特別」を失ったときと、「当たり前の日常」を失ったとき。人は、どちらの方が悲しいのかな。
もしかして、両者は同じものだったりして。
きっとこの中華料理屋も、誰かの「一番」。